ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

FBからの転載

山で救助なら自己負担にしろ
そういう風潮がまずまっさきに殺すのは山があるから人が集まっている地域やそこで暮す人々なんじゃないか
自己責任とかいうマジックワードで何もかもを個人に負担させるのが最終的になにをもたらすのか

そういう楽ちんな正義に乗っかることで得られるものと失うものの釣り合いが歳を取るたびアンバランスになる

稜線からころがり落ちないように耐えてたどり着いた山頂も、そこにしがみつき続ければただの墓場に変わる

ま、そんなことどうでもいいんですけどね

伝統というものは、死者が創る

最近、鎌倉の昔の姿や伝統について色々と考えるきっかけがあった。
その中で思いついた事がこのタイトルである。
文化とは連続性の刹那にきらめく個性の光なのではないかと思う。けして個性のみでも、また個性のない連続性のみでも大きな流れとはなり得ない。

資本主義社会は連続性を軽視しすぎる
文化の連続性が無くなるとき、人間は本当にそれを失うのではないか

死者は肉体を失い、概念や記憶のみの存在となる
それはつまり、純粋な連続性の中にのみ生きている状態と言いかえることができる
生きている人間ももちろん社会性という連続性の中で生活するのだけど、資本主義社会という峻別は資本を生まないものを後世に残すことを激しく制限する。

古典は本当に必要なのかを考える

https://youtu.be/_P6Yx5rp9IU

つらづらとその場その場の感想を

・冒頭2名の反対側の意見を聞いて

機械学習のところで特に感じた事は、哲学的な深みはもしかしたらこの二人を古典擁護側は超えないのではないかという感覚があった。古典そのものは人間理解の深度で時代の峻別を受け続けて価値の認められたものだけど、その読解に関してはかなりテクニカルなものなのであって本質と関係があまりないのではないだろうか、という発想。

・肯定側一人目の話を聞いて

和歌の研究者と言うことで、例に出ていたケースも含めて言葉が持つ身体性について考えさせられた。
ざっくり言ってしまえば、言葉と身体的なものが結びつく時こそ強力な共感は得られやすい、とでも言った感じ。その辺りの過去の例なんかを学ぶという意味で古典を学ぶという観点はあまり考えたことがなかった。

肯定派二人目
やべえやつ出てきた感を正直感じた。話に我田引水っぽいニュアンスと、規模としてどの程度あるのか測りかねる上に自分がインナーサークルにいた実績の話を始めて、それを根拠にしている。一番議論が成り立ちづらいタイプの人だというように感じる。

個人的にこの話題の一丁目一番地は受験科目に古典がある妥当性(リソース配分もほとんどここが焦点ではないかと思う)だと思うけど、ここに切り込みつつ建設的な議論をすることは出来るのかなあ…最後の人の出現で不安になった

デマゴーグが利用する、怒りという感情

デマというものは社会悪である。しかしその悪を生んだのは社会なのだから、それはそれとして社会の1側面でありそれとうまく付き合っていく事は必須なんじゃないかと思う。
その中で改めて感じたことが、この記事のタイトルになっている。
何をデマとして、何をデマとしないかという価値判断の話は一旦置いておくと(話題にこれが絡んで来ざるを得ないのがまた悪魔的に良くできている)、科学的というか論理的にかなり怪しい話題というのは世の中に色々存在する。
むしろ逆に科学的すぎる、論理的すぎる話というのもデマとして扱われることは多い。
それはつまり、人間というのは感情を以って価値判断を行うという一見当たり前の、しかしあまり意識されない事実を示している。
デマは社会悪であると最初に言ったがそれも実は荒っぽい言い方で、より詳細に言い表すなら今の自分にはこんな感じだ。

「悪意やあまりに偏った意図持った人が流すデマは、社会にとって有害」

と、こんな感じだろうか。

人々はそういったデマとも情報とも言いかえられるものに接して、それを取捨選択している。
信じられる情報はよいもの、信じられない情報は悪いもの、なんていうふうに。
その一見当然な判断の裏にもデマは潜むのではないか。
つまり「俺の信じない情報を信じる奴は馬鹿だ」みたいなタイプの方向性だ。
よくできたデマはこの思考の流れを利用する。
本当は○○だった○○、ここだけの話、衝撃の真実

それが事実か事実じゃないかなんてことは、こういう話題を世の中に広めようとしたときに全く重要ではない。むしろ、そういう確度から遠ければ遠いほど信じる人の思考は強く揺さぶられるような構造をしているのだと思う。
そして、それを信じてしまった人に「それは事実じゃない!」と言ったところで全く意味がないようになっている。なぜならそういう話題は、だいたい事実や常識だと思っていたものを否定するところが話の入り口だったりしているからだ。

長くなったから一旦書くのやめるけ

流行り廃りがもつ作用

最近少し思いついたことを。
ものごとには流行り廃りが少なからずある。
それがもたらす影響は良いもの悪いものがある。
最近思った、「廃ること」の良い点に絞ってここで述べてみよう。

文化というものは伝播してゆくもので、新しさや光の強さに眩んで連続性をないがしろにしてしまうことはよく起こっているのではないかと思う。
特にそれをエンターテイメントに限定すれば顕著なのは、端的に言ってしまえば人間の想像力は無限だ、みたいな想像力のない幻想が結構広く信じられているせいなのではないかと皮肉っぽく考えたりもする。
伝播するほどの影響を残す中で、しかし廃れるというのは矛盾したような話かもしれない。

なんか夜中適当に書きかけのままupしてしまった
でもその後いい例えを思いついたので書いてみる

古代に滅んだ遺跡が現代に発掘される。そこから逆に古代の情報が現代に流れ込むということが起こる。
例えばその遺跡や遺構が一旦土中に埋まらなかったとすればその現象は起こったのだろうか。もちろん素材や環境にもよるのだろうけど、それはほぼ不可能だったはずである。つまりおそらくこれは、地面に潜ってくぐり抜けてきた時間そのものがインパクトに変換されるというような原理があるのではないかという仮定だ。
跡形もなく滅ぶ。うわものは消し飛ぶ。しかし、その全ての痕跡がなかったことになるわけでもない。土台が残り、ごみ捨て場が残り、朽ち果てた死骸が残ることもあるかもしれない。
その儚いなにがしかがタイムカプセルのように時を超えて、その超えてきた時間ぶんの衝撃を伴い現代へ蘇るということがあるのだろう。

文化というものにおいてもそのような作用はあるのではないか、と思ったというお話でした。

美しいということ

美しさとは何かについて素朴に考えた。
非常に個人的には美しさとは法則性だと思う。
シンプルなものはわかりやすく美しい。それは方向性が伝わりやすいからだと思う。
だが、それもほとんどそういう概念によってそう思わされているという側面もまたあると思った。

どういうことかと言うと例えば、夕焼けを見て美しいと多くの人は思うだろう。
では夕焼けの景色の写真をみて、それはそんなにシンプルだろうか。
雲のちぎれる様々な形があり、太陽光の鮮やかなグラデーションがそこにはあるし、逆光の中に沈みゆく景色や西日に照らされる何かがあるだろう。それは豊かな複雑さに溢れていて、個人的に法則なぞ全く認識し得ない。法則とは理解不能であるなら法則とはなり得ない。
方向性と言うものは受け取る側自身のバイアスを強烈に反映する。
ぼんやり考えた仮説を言えば、「自然にはなにかの法則性に則っている」という方向性を

主観と二項対立、そして複雑系

主観で話をすると、独善に変わりうるのでそれは俯瞰して扱うべき
隣り合う二項があれば対立となり、多かれ少なかれイデオロギー同士のぶつかりあいとなる
ではこの世をおしなべて複雑系と捉え、揺れ動く情報の中で合理的な決断をしていくとなると人間の能力にそのような事を行う能力はないので不可能となる

何が正しくて正しくないのかを「極個人的に」判別する事にさえ、「揺るぎない個人」の確立が必要不可欠だろうが、そんな事が出来ているのは明確な狂人だけだ。

世の中の全ての物事はうつろう。うつろわぬものが仮にあったとて、その周りがうつろうありさまを映し返す鏡になるのが精一杯でないかと思う。

新潮45大坂なおみ選手の色々を見聞して思った事を書こうと思ったら得体のしれない前置きになった。

差別やなにかが「ある」ことと「ない」という主張の対立においては、ないという主張は弱くならざるを得ない。
「ある」には変化が含まれる。勿論なかったものが出てきたという誕生も含めて。
しかし「ない」にはせいぜい元からないか、あったものがなくなった、の二種類くらいしかない。

ないという断定には絶対性がある。そして、世の中に絶対性があるものなんてそうそう存在しない。
ないようなものだ、とないとは圧倒的な断絶がある。

つまりほんらい議論すべきは、ないとされてきたものが本当にどれだけあるのかということだ。
主観ではなく、あるかないかの強引な二元論でもなく、人間の手には余ることが明白であろうが恐ろしい現実を詳らかにしてその先に破滅があろうが、その複雑さに取り組むことしかないのだろうと思う。

俺はそんなめんどうくさいことは死んでもいやだと思いながら知らんぷりして生きるけど