ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

古典は本当に必要なのかを考える

https://youtu.be/_P6Yx5rp9IU

つらづらとその場その場の感想を

・冒頭2名の反対側の意見を聞いて

機械学習のところで特に感じた事は、哲学的な深みはもしかしたらこの二人を古典擁護側は超えないのではないかという感覚があった。古典そのものは人間理解の深度で時代の峻別を受け続けて価値の認められたものだけど、その読解に関してはかなりテクニカルなものなのであって本質と関係があまりないのではないだろうか、という発想。

・肯定側一人目の話を聞いて

和歌の研究者と言うことで、例に出ていたケースも含めて言葉が持つ身体性について考えさせられた。
ざっくり言ってしまえば、言葉と身体的なものが結びつく時こそ強力な共感は得られやすい、とでも言った感じ。その辺りの過去の例なんかを学ぶという意味で古典を学ぶという観点はあまり考えたことがなかった。

肯定派二人目
やべえやつ出てきた感を正直感じた。話に我田引水っぽいニュアンスと、規模としてどの程度あるのか測りかねる上に自分がインナーサークルにいた実績の話を始めて、それを根拠にしている。一番議論が成り立ちづらいタイプの人だというように感じる。

個人的にこの話題の一丁目一番地は受験科目に古典がある妥当性(リソース配分もほとんどここが焦点ではないかと思う)だと思うけど、ここに切り込みつつ建設的な議論をすることは出来るのかなあ…最後の人の出現で不安になった

デマゴーグが利用する、怒りという感情

デマというものは社会悪である。しかしその悪を生んだのは社会なのだから、それはそれとして社会の1側面でありそれとうまく付き合っていく事は必須なんじゃないかと思う。
その中で改めて感じたことが、この記事のタイトルになっている。
何をデマとして、何をデマとしないかという価値判断の話は一旦置いておくと(話題にこれが絡んで来ざるを得ないのがまた悪魔的に良くできている)、科学的というか論理的にかなり怪しい話題というのは世の中に色々存在する。
むしろ逆に科学的すぎる、論理的すぎる話というのもデマとして扱われることは多い。
それはつまり、人間というのは感情を以って価値判断を行うという一見当たり前の、しかしあまり意識されない事実を示している。
デマは社会悪であると最初に言ったがそれも実は荒っぽい言い方で、より詳細に言い表すなら今の自分にはこんな感じだ。

「悪意やあまりに偏った意図持った人が流すデマは、社会にとって有害」

と、こんな感じだろうか。

人々はそういったデマとも情報とも言いかえられるものに接して、それを取捨選択している。
信じられる情報はよいもの、信じられない情報は悪いもの、なんていうふうに。
その一見当然な判断の裏にもデマは潜むのではないか。
つまり「俺の信じない情報を信じる奴は馬鹿だ」みたいなタイプの方向性だ。
よくできたデマはこの思考の流れを利用する。
本当は○○だった○○、ここだけの話、衝撃の真実

それが事実か事実じゃないかなんてことは、こういう話題を世の中に広めようとしたときに全く重要ではない。むしろ、そういう確度から遠ければ遠いほど信じる人の思考は強く揺さぶられるような構造をしているのだと思う。
そして、それを信じてしまった人に「それは事実じゃない!」と言ったところで全く意味がないようになっている。なぜならそういう話題は、だいたい事実や常識だと思っていたものを否定するところが話の入り口だったりしているからだ。

長くなったから一旦書くのやめるけ

流行り廃りがもつ作用

最近少し思いついたことを。
ものごとには流行り廃りが少なからずある。
それがもたらす影響は良いもの悪いものがある。
最近思った、「廃ること」の良い点に絞ってここで述べてみよう。

文化というものは伝播してゆくもので、新しさや光の強さに眩んで連続性をないがしろにしてしまうことはよく起こっているのではないかと思う。
特にそれをエンターテイメントに限定すれば顕著なのは、端的に言ってしまえば人間の想像力は無限だ、みたいな想像力のない幻想が結構広く信じられているせいなのではないかと皮肉っぽく考えたりもする。
伝播するほどの影響を残す中で、しかし廃れるというのは矛盾したような話かもしれない。

なんか夜中適当に書きかけのままupしてしまった
でもその後いい例えを思いついたので書いてみる

古代に滅んだ遺跡が現代に発掘される。そこから逆に古代の情報が現代に流れ込むということが起こる。
例えばその遺跡や遺構が一旦土中に埋まらなかったとすればその現象は起こったのだろうか。もちろん素材や環境にもよるのだろうけど、それはほぼ不可能だったはずである。つまりおそらくこれは、地面に潜ってくぐり抜けてきた時間そのものがインパクトに変換されるというような原理があるのではないかという仮定だ。
跡形もなく滅ぶ。うわものは消し飛ぶ。しかし、その全ての痕跡がなかったことになるわけでもない。土台が残り、ごみ捨て場が残り、朽ち果てた死骸が残ることもあるかもしれない。
その儚いなにがしかがタイムカプセルのように時を超えて、その超えてきた時間ぶんの衝撃を伴い現代へ蘇るということがあるのだろう。

文化というものにおいてもそのような作用はあるのではないか、と思ったというお話でした。

美しいということ

美しさとは何かについて素朴に考えた。
非常に個人的には美しさとは法則性だと思う。
シンプルなものはわかりやすく美しい。それは方向性が伝わりやすいからだと思う。
だが、それもほとんどそういう概念によってそう思わされているという側面もまたあると思った。

どういうことかと言うと例えば、夕焼けを見て美しいと多くの人は思うだろう。
では夕焼けの景色の写真をみて、それはそんなにシンプルだろうか。
雲のちぎれる様々な形があり、太陽光の鮮やかなグラデーションがそこにはあるし、逆光の中に沈みゆく景色や西日に照らされる何かがあるだろう。それは豊かな複雑さに溢れていて、個人的に法則なぞ全く認識し得ない。法則とは理解不能であるなら法則とはなり得ない。
方向性と言うものは受け取る側自身のバイアスを強烈に反映する。
ぼんやり考えた仮説を言えば、「自然にはなにかの法則性に則っている」という方向性を

主観と二項対立、そして複雑系

主観で話をすると、独善に変わりうるのでそれは俯瞰して扱うべき
隣り合う二項があれば対立となり、多かれ少なかれイデオロギー同士のぶつかりあいとなる
ではこの世をおしなべて複雑系と捉え、揺れ動く情報の中で合理的な決断をしていくとなると人間の能力にそのような事を行う能力はないので不可能となる

何が正しくて正しくないのかを「極個人的に」判別する事にさえ、「揺るぎない個人」の確立が必要不可欠だろうが、そんな事が出来ているのは明確な狂人だけだ。

世の中の全ての物事はうつろう。うつろわぬものが仮にあったとて、その周りがうつろうありさまを映し返す鏡になるのが精一杯でないかと思う。

新潮45大坂なおみ選手の色々を見聞して思った事を書こうと思ったら得体のしれない前置きになった。

差別やなにかが「ある」ことと「ない」という主張の対立においては、ないという主張は弱くならざるを得ない。
「ある」には変化が含まれる。勿論なかったものが出てきたという誕生も含めて。
しかし「ない」にはせいぜい元からないか、あったものがなくなった、の二種類くらいしかない。

ないという断定には絶対性がある。そして、世の中に絶対性があるものなんてそうそう存在しない。
ないようなものだ、とないとは圧倒的な断絶がある。

つまりほんらい議論すべきは、ないとされてきたものが本当にどれだけあるのかということだ。
主観ではなく、あるかないかの強引な二元論でもなく、人間の手には余ることが明白であろうが恐ろしい現実を詳らかにしてその先に破滅があろうが、その複雑さに取り組むことしかないのだろうと思う。

俺はそんなめんどうくさいことは死んでもいやだと思いながら知らんぷりして生きるけど

ぼくが最近オーパーツにロマンを感じなくなった理由

これに関して、インディアナジョーンズと新縄文展の話題を別々な友達とそれぞれ話しているときに同じような展開になったので個人的にまとめてみる。
オーパーツが好きだった。より正確に言えば、オーパーツが出てくる漫画が好きだったということなのかもしれない(しかしあの漫画もよくよく考えればオーパーツなんかより人間そのもののほうがやばいよという話だったのは示唆的という気がする)
AKIRAほどスチームパンクでもなく、ドラゴンボールほどポップでもなく、スプリガンという話と皆川亮二の絵柄はカッチリとあの頃の日常とリンクした上でSFファンタジーを見せてくれる最高の漫画だった。
オーパーツはそんなリアルからイマジネーションを与えてくれる存在だった

が、今の自分にとってはまったくそんな存在ではない。
なぜか。

それは第一に科学調査の水準が上がり、オーパーツに残されていた謎をそれなりの公平な視点で納得度の高い形として推測できるようになったということがある。
それはロマンを減じこそさせるかもしれないが、まったく喜ばしいことで幻滅には繋がり得ないはずだ。
つまり、ぼくはオーパーツという概念が成立した過程を考えてやや幻滅してしまった、ということなのだ。

どういうことか。
オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」とした語"
ということだが、その前提としてその場に遇しているかどうかの合理を完璧に判断することが出来ている、というかなり傲慢な認識の元でしかこの言葉は生まれ得ないと言うことだ。
それは前提とする科学技術の発達が…とか、考古学的調査の結果が…とかいうエクスキューズはもちろん有効だろう。だがしかし、それらの言い逃れが「世界で一番進んでいる欧米文化のもと発達した科学でも理解し得ない文化を発見した」という差別的な前提があったということを正当化しはしない。(というと反欧米みたいな雰囲気になるが、この話題に関してたまたま欧米の立場が先頭だったというだけだ)
差別的なと書いてはみたが、どちらかというと寧ろそれが秘める「非科学的な態度」がとにかく気に食わなくなってしまった、と言うことだ。
科学というのは変化と収斂を繰り返し続けるものである。当然その過程で知識やなんかの前提を陳腐化する事(もしくはその逆も)は繰り返されてきた。当然だし自明の話だ。
愚かだなと思うのは今や陳腐化された過去の説ではなく、そういった過去が自分たちの信じる科学にすら存在しているのにそれを全く考慮しないまま未知の文物を扱おうとしていたという態度にほかならないと思うようになったと言うことだ。

なんか自分でもごちゃごちゃしてて面倒くさくなったから誤解が生まれる余地やあらっぽさを考慮せず簡潔に言ってみると、「昔に生きてた人間を馬鹿にしている」のがイヤだなと思うようになった、という感じか。

特筆すべきはキリスト教的史観というイデオロギーによって見失うこととなった種々の文化だと思うけれど、日本人の大陸文化に対する極端な低評価というものも全くそれに劣るものではない異様さであり、寧ろ現在進行形という点でより切実な問題であると思ってもいるけど一旦ここで文として打ち切る。

感化されたいという欲求

なにかに感化されたい、見知らぬなにかから刺激を得て新しい自分を見出したいという欲求について最近よく考える。
なぜそんなことを気に留めるようになったかというと、歳を取るとそういう事を割と意識的にやらないとあんまりそういうふうな機会とかが少なくなっちゃうんじゃないかという気がある時したからだ。

自己満足というのは人間が生きているだけで腹が減るように、気を抜くとすぐに飢餓感を煽ってくる。呪いみたいだな、と思わないでもない。

若い頃はむしろこの自己満足というものが自分に飢餓を訴える声があまりにも大きすぎて、がむしゃらにそれに応えるということがあまりにも当然過ぎてなにも考えずにそうやっていたんじゃないか、そして今はそんなふうに突き放せる程度に自己満足というものの扱い方がわかるようになってきた、ような気がする。

呪いからの解放はまあ無理でも、自分に呪いみたいなものが掛かっているという仮説が考えつく程度には俯瞰して見られるというのは、なかなかに生きやすいのではないかと思う。

そしてそこまで考えると、なにかに感化されたいという内なる欲求が少なくなってきたなら別にそれが悲しむべき変化だとばかりは思わないし、そこに抗い生きていく事が正しいなんていうのも単にひとつの価値観に過ぎず、参考にこそすれ自分がどうするかなんてのは自分が決めりゃいいだけの話だなと思った。

個人的に若いなんてことにたいした意義を認めていなかったからこその強がりなのかもしれないし、この考え方も現時点での一つの考えなので今後どうなるかは知らんけど

追/自己満足とかなんとかってのが急に出てきたのはこの記事見たからだと今気づいた。この記事より遥かに良いので皆さんどうぞ
https://dot.asahi.com/dot/2018081000019.html