主観と二項対立、そして複雑系

主観で話をすると、独善に変わりうるのでそれは俯瞰して扱うべき
隣り合う二項があれば対立となり、多かれ少なかれイデオロギー同士のぶつかりあいとなる
ではこの世をおしなべて複雑系と捉え、揺れ動く情報の中で合理的な決断をしていくとなると人間の能力にそのような事を行う能力はないので不可能となる

何が正しくて正しくないのかを「極個人的に」判別する事にさえ、「揺るぎない個人」の確立が必要不可欠だろうが、そんな事が出来ているのは明確な狂人だけだ。

世の中の全ての物事はうつろう。うつろわぬものが仮にあったとて、その周りがうつろうありさまを映し返す鏡になるのが精一杯でないかと思う。

新潮45大坂なおみ選手の色々を見聞して思った事を書こうと思ったら得体のしれない前置きになった。

差別やなにかが「ある」ことと「ない」という主張の対立においては、ないという主張は弱くならざるを得ない。
「ある」には変化が含まれる。勿論なかったものが出てきたという誕生も含めて。
しかし「ない」にはせいぜい元からないか、あったものがなくなった、の二種類くらいしかない。

ないという断定には絶対性がある。そして、世の中に絶対性があるものなんてそうそう存在しない。
ないようなものだ、とないとは圧倒的な断絶がある。

つまりほんらい議論すべきは、ないとされてきたものが本当にどれだけあるのかということだ。
主観ではなく、あるかないかの強引な二元論でもなく、人間の手には余ることが明白であろうが恐ろしい現実を詳らかにしてその先に破滅があろうが、その複雑さに取り組むことしかないのだろうと思う。

俺はそんなめんどうくさいことは死んでもいやだと思いながら知らんぷりして生きるけど

ぼくが最近オーパーツにロマンを感じなくなった理由

これに関して、インディアナジョーンズと新縄文展の話題を別々な友達とそれぞれ話しているときに同じような展開になったので個人的にまとめてみる。
オーパーツが好きだった。より正確に言えば、オーパーツが出てくる漫画が好きだったということなのかもしれない(しかしあの漫画もよくよく考えればオーパーツなんかより人間そのもののほうがやばいよという話だったのは示唆的という気がする)
AKIRAほどスチームパンクでもなく、ドラゴンボールほどポップでもなく、スプリガンという話と皆川亮二の絵柄はカッチリとあの頃の日常とリンクした上でSFファンタジーを見せてくれる最高の漫画だった。
オーパーツはそんなリアルからイマジネーションを与えてくれる存在だった

が、今の自分にとってはまったくそんな存在ではない。
なぜか。

それは第一に科学調査の水準が上がり、オーパーツに残されていた謎をそれなりの公平な視点で納得度の高い形として推測できるようになったということがある。
それはロマンを減じこそさせるかもしれないが、まったく喜ばしいことで幻滅には繋がり得ないはずだ。
つまり、ぼくはオーパーツという概念が成立した過程を考えてやや幻滅してしまった、ということなのだ。

どういうことか。
オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」とした語"
ということだが、その前提としてその場に遇しているかどうかの合理を完璧に判断することが出来ている、というかなり傲慢な認識の元でしかこの言葉は生まれ得ないと言うことだ。
それは前提とする科学技術の発達が…とか、考古学的調査の結果が…とかいうエクスキューズはもちろん有効だろう。だがしかし、それらの言い逃れが「世界で一番進んでいる欧米文化のもと発達した科学でも理解し得ない文化を発見した」という差別的な前提があったということを正当化しはしない。(というと反欧米みたいな雰囲気になるが、この話題に関してたまたま欧米の立場が先頭だったというだけだ)
差別的なと書いてはみたが、どちらかというと寧ろそれが秘める「非科学的な態度」がとにかく気に食わなくなってしまった、と言うことだ。
科学というのは変化と収斂を繰り返し続けるものである。当然その過程で知識やなんかの前提を陳腐化する事(もしくはその逆も)は繰り返されてきた。当然だし自明の話だ。
愚かだなと思うのは今や陳腐化された過去の説ではなく、そういった過去が自分たちの信じる科学にすら存在しているのにそれを全く考慮しないまま未知の文物を扱おうとしていたという態度にほかならないと思うようになったと言うことだ。

なんか自分でもごちゃごちゃしてて面倒くさくなったから誤解が生まれる余地やあらっぽさを考慮せず簡潔に言ってみると、「昔に生きてた人間を馬鹿にしている」のがイヤだなと思うようになった、という感じか。

特筆すべきはキリスト教的史観というイデオロギーによって見失うこととなった種々の文化だと思うけれど、日本人の大陸文化に対する極端な低評価というものも全くそれに劣るものではない異様さであり、寧ろ現在進行形という点でより切実な問題であると思ってもいるけど一旦ここで文として打ち切る。

感化されたいという欲求

なにかに感化されたい、見知らぬなにかから刺激を得て新しい自分を見出したいという欲求について最近よく考える。
なぜそんなことを気に留めるようになったかというと、歳を取るとそういう事を割と意識的にやらないとあんまりそういうふうな機会とかが少なくなっちゃうんじゃないかという気がある時したからだ。

自己満足というのは人間が生きているだけで腹が減るように、気を抜くとすぐに飢餓感を煽ってくる。呪いみたいだな、と思わないでもない。

若い頃はむしろこの自己満足というものが自分に飢餓を訴える声があまりにも大きすぎて、がむしゃらにそれに応えるということがあまりにも当然過ぎてなにも考えずにそうやっていたんじゃないか、そして今はそんなふうに突き放せる程度に自己満足というものの扱い方がわかるようになってきた、ような気がする。

呪いからの解放はまあ無理でも、自分に呪いみたいなものが掛かっているという仮説が考えつく程度には俯瞰して見られるというのは、なかなかに生きやすいのではないかと思う。

そしてそこまで考えると、なにかに感化されたいという内なる欲求が少なくなってきたなら別にそれが悲しむべき変化だとばかりは思わないし、そこに抗い生きていく事が正しいなんていうのも単にひとつの価値観に過ぎず、参考にこそすれ自分がどうするかなんてのは自分が決めりゃいいだけの話だなと思った。

個人的に若いなんてことにたいした意義を認めていなかったからこその強がりなのかもしれないし、この考え方も現時点での一つの考えなので今後どうなるかは知らんけど

追/自己満足とかなんとかってのが急に出てきたのはこの記事見たからだと今気づいた。この記事より遥かに良いので皆さんどうぞ
https://dot.asahi.com/dot/2018081000019.html

情報という概念

ふと最近思った事だけど、情報はかつて「蓄える」ものだった。
いま改めて考えるとそれってかなり時代遅れだよな、と感じる。
情報は更新しなければ意味がない。かつてもそうであったといえばそうだったはずなのだけど情報へ接するスピード、つまり量的なものがその認識を個人レベルで変えて、もはや更新されない情報なぞ変わらない錯誤を抱えるようなものというレベルに近くなっている。

まあしかしそれだって考えてみれば公的な、例えば仕事なんかのメシの種に関わる情報であれば昔からそうだったはずなのだから、つまりは私的な情報の扱いに関しても公的なものを取り扱っているレベルが求められるようになった(なってしまった)というのが端的に纏めた現状ではないか。

人間には認知バイアスというものが絶望的に介在する。その面倒くささ、厄介さは御したと思ったその時こそこちらを振り落としてくるような悪魔性がある。特に自分のようなとりたてて賢くもなく、とりわけて間が悪く生まれつきおっちょこちょいな人間にはそうだと自分で信じてさえいる。

追/ 情報の正誤を決める心とは、一体何なのか。まさか誰も自分の考えが真実に達していると考えているわけでもあるまいに、しかしそう信じていると捉えられるような口ぶりで情報に接しかねない日常がある。
そしてその危うさを、SNSで増幅された好悪が補強する。そして次第に判断の正当性を補強するものであったはずの好き嫌いが判断そのものを呑み込み、好きなものを正しくし嫌いなものを誤ったものに仕立て上げてしまう。

何かを正しいと断定し、何かを誤っていると断罪する。少し前ですら気軽にやっていたそんなような事すら、今は先の見えない中タイトロープを渡るような行為に思えてしょうがなく、ただただそんな場面から遠ざかりたいという思いが今はあるが、しかし人生とはそんなものなのだ

アクセス解析ページを

PCモードで見てみたら

 

f:id:ko_kanagawa:20180808200914j:plain

 

はてなからのアクセスが少ないのか、スマニューが多いだけなのか。

てか日記もスマホchromeからだとそもそもがオミットされてる機能が山ほどあるのね。ま、だからなんだとも思わないけど、はてなはあんまりモバイルに力入れてないイメージつよいね。

最近行った鎌倉のお店

を、主にりんごの木さんに向けてしたためる。
非常ににわかじこみの情報だけど、いいなと思った所をそのまま書くことに努めるので相対評価ではないということを考慮していただけると幸いです。

最近よく外で紅茶を飲む。コーヒーは正直辻堂の27coffeeが素晴らしすぎて、そこで飲むのが至高で他はあまり感動がなくなってしまっているのと、豆の買い置きがあればそのへんの店で飲むより自宅のフレンチプレスでパパっと淹れたもののほうが美味しかったりするから。
そしてまあ、いい店は紅茶だとポットごとサーブしてくれてコストパフォーマンスがいいという悲しい庶民の知恵も大いにあったりもする。
そしてそのメリットを最大限に甘受する上では、混みすぎないということも非常に大事…なのだけど鎌倉は鎌倉だからその辺諦めも必要となる。

前置きが膨らんでしまった。

まず最初はブンブン紅茶店さん。いきなり反例だけどこの店は席数的にはわりとタイトになる。そもそも名実あるいいお店が銭洗弁財天と佐助稲荷に向かう道すがらにあるということで、週末ゆっくりすることは諦めた方がいいかも。ランチは行ったことがないので謎

この店のウリはもちろん紅茶…もなんだけど、正調な英国風の手作りお菓子が素晴らしい。
f:id:ko_kanagawa:20180808014513j:plain
スノーフレークケーキと銘柄忘れたストレートティー
f:id:ko_kanagawa:20180808014741j:plain
ヴィクトリアサンドウィッチとカルダモンティー

スノーフレークケーキはまず提供するスタイルがすごい。このあいだ初めて頼んで出てきたのを見たとき、それだけで気分が上がった。食べる前からそんな事になるってもはやすごい価値。
そして意外な食べ方の指示を教えてもらっていざ口にすると、もはやはっきりした食感は焼きメレンゲ部分のみがあって、その強い甘みと中にまた甘さの抑えたメレンゲ?(これが何だったのかだけ曖昧)クリームの濃厚さ、最下段のレモンカードの爽やかな甘酸っぱさがランダムに、時に混じり合って口を楽しませてくれる。
ポットの紅茶は優に3杯分だけど、このケーキにはそれを最大限楽しませてくれる楽しさがあるので、ボディの強いお茶が合うかな?

ヴィクトリアサンドウィッチは、端正な見た目を全く裏切らない味わい。ジャム(写真ではどちらもレモンカード。季節で変わると思う)をスポンジで挟んで、アイシングをかけただけ。しかし個人的にはスノーフレークケーキよりもこちらに感銘を受けた。
クリームもなく、飾り気もない本当に本当に地味なケーキ。だけどとにかくスポンジの食感が素晴らしい。口どけ、生地の弾力とやわらかさの正しいバランス。
ヴィクトリアサンドウィッチという名前が漂わせるのは華やかなイメージだけど、その実イギリス国民の美徳というか質実剛健さ素朴さと、何よりそれらを動かさない頑固さ、またその裏にある自信を作っている人に感じることができた…というと大袈裟かなあ?
味わいとしては本当にシンプルなのでお茶は何でも合うはず。飲んだことのない品種、おすすめのスペシャル茶葉、チャイもあればフルーツフレーバーブレンドもスパイスティーも、ジャム入り洋酒入フレッシュフルーツ入etc...ティーと呼ばれている中でここで飲めないのはロングアイランドアイスティーくらいじゃないかという中で、思い切ったものを選んでもこの店なら満足できると思います。


書くとやたら長くなったのでまず一軒だけ。
予定としては喫茶系の欧林堂、クレープリーアルモリック、ベルグフェルド長谷店
食事系の極楽カリー、シーキャッスル、津久井、マイクスバー、バワンなんかを書きたいけど、今回力加減がおかしいので次回から調整したい。夜中に始めたのが間違いだった…

昨日の前日のはなし

元はといえば一昨日に、長谷(まあべつに雪の下の本店でもよかったけど)のベルグフェルドまでパンをおつかいで頼まれて、ニアミスしていたのが昨日のクジラ見物の前日譚なのだけど

f:id:ko_kanagawa:20180807090858j:plain

このシャツを観音大通り沿いの手仕事屋?というお店で見かけて、思わず衝動買いしたのが一昨日の正午くらいで、その日帰ってからクジラ漂着のニュースを見たんだよね。
打ち上げられた時刻ともかなり近くて、今にして思えばすごく不思議な感じ。ふだん服を衝動的に買うことなんて全くないのに。