ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

ワイの考えたキリスト教ここがすごいぞ

ブコメで最近思いついたキリスト教論を書いたので、書き足りなかったこととか書きたい。以外歴史的な正しさとかあえて調べずに考えたただのヨタ文です

まずユダヤ教からの変化。ユダヤ教ってなんか神が直接ああせいこうせいって言ってる感が強い。この特徴はイスラムもそうで、しかしこのスタイルだと間口が狭まるし時代だなんだにあわせた変化は生みづらい。そりゃ神が言ったことホイホイかえらんねーわな。イスラムの人が豚食わないだユダヤは食えないもん多すぎwwwとか言ったってしょうがねーんだよってこと。神に喧嘩売ってんのかと。
んでその間口狭いって不便さを解消するには宗教とか関係は一切合切ユダヤ!これ一本!!みたいにしとくのが一番。したらまぁ無条件でオッケーになるからね。親父や周りみんなが言ってることなんてちょい変でも従うってのがイキモノなんだよ。
そんで、そりゃ周りの宗教滅ぼすわと。

そのへんキリスト教はやべー。まずキリストが神からろくな目にあってない。ここでもう「神=万能=神の言う事聞いてる俺らも万能」っていう一神教の矛盾点ほとんど消してる。
そのろくでもない目に合わされるキリストがいろいろ奇跡起こして、死んでも生き返って「やっぱ神っしょ!!!」これはやばい。

ユダ、お前裏切りよったな……でもゆるーす!

この神感あふれるインパクト。もはやナンマイダーで全部おkつってた東洋一の一揆マシーン親鸞先輩と同様のインパクトがある。

だが現実は残酷である。残酷さに勝つ方法?俺ら知ってますよ、とやってたのがキリスト以前。
キリストは、「残酷だよねーまじで。残酷だけど俺みたいに愛のパワーすべて振り絞ったらうまくいったりするし、うまくいかなくてもまあパワー足りるまでいったらあとは俺らがなんとかすっから頑張ってみろよ!!」って言ってくれる先輩。

そして後の世の人らが、その無茶な話をああしようこうしようとひねくりだしたのが三位一体とかいうくそわけわからん理屈だったり、正義とか愛とかの現実の合理性から著しく乖離した抽象的な概念なんじゃないかな、というのもあるんだけどまあそりゃ別なときにまとめてみよう。

東浩紀の

菅野完批判みたいなやつの話さ、東浩紀関連の話題が大概俺の考えるのとずいぶんピントずれてることが多くて謎なのね
自分のブコメでも言ってるけど、いまトップコメのひとは菅野完側ファボとかリツイートしてる人400とか500くらいの人の中で左翼いないって考えてるんだよね?俺普通に考えて左翼の人も右翼の人もいるんじゃないかと思うから無関係ではないかなと思うんだけど。

まぁそんな事どうでも良くて、別にそもそも東浩紀が言ってることって右だから左だからとかいう話じゃなくて、誰か一人をいきなりやり玉に上げて批判の具にするのやめろよって話じゃないの?菅野かんがどっち側だからなんだって言ってるこれ?安倍とかだと多少は一人やり玉にしてもギリしょうがないかも(ホントはだめだよ?)とも妥協できるけど、東浩紀ただのいっぱいいる人の中の一人だよね?

2chによくある、発表当時と現在で持たれてるイメージが

違う曲ベストテンみたいなスレで、定番になってるオリーブの首飾りとかをサラッと言っちゃうイケメンに勝てる曲を思いついたんだよ。 

ザ・サードマンのテーマ」これ!!!!??、!!!

ららぁさんのブログ

とかを読んだり、最近のADHDに関する増田だったか?を読んで自分の季節性躁うつに対する俯瞰した視点を得たけれど、明らかに3日4日前の気温が一気に上がった日を境に躁鬱が反転して躁状態が始まっている。
自分で考えてもわけわかんない行動を取ってきた人生だったけど、突拍子もないひどい行動も(誰になんの説明もなく仕事を辞めた上に一切の連絡を断つ)脳天気な行動も(出稼ぎを中心に据えた生活の始まりとか、北海道を自転車で野宿しながら半周してみたり)
この季節性の躁うつがかなり説明してくれるのだなと気が付かせてもらって、なんだか心が楽になったような気がする。
躁状態のちからを借りて、とりあえず明日迷惑と死ぬほど心配かけていそうな人に片っ端から謝っていこう。

伝わらないだろうけどららぁさん、不特定増田数名に感謝を記す。
そしてこの躁が終わった時と反動の鬱が始まったときがすごい心配なのでいろいろ取り組んでいかなけりゃならんな…
死ななければまあセーフだと思ってるけど、自分が躁うつって認識できたの初めてだからなにか見知らぬ不測の事態になるかもしれないので注意が必要だ

昨日の続き

エリートとリベラルアーツ、そして暇人達の関係性とそこから生まれる分断について。
昨日の後半に述べた論を続ける。
言いたいことをめちゃめちゃ要約するとこうで、リベラルアーツに属する知識をオタクの専売特許にしちゃったほうが良くない?みたいな話。
実際受験科目からそういう科目が消え、国立大学から文系学科が削られる未来は遠からず来るだろうと思っている。
それはあのブコメで大勢を占めていた「リベラルアーツ必要論」というのも大衆が考えていることであって、現在のエリートの中のエリートは全くそんな必要性を認識していないのでは?という個人的な印象に基づいている…
と、ここまで書いて昨日の「エリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎている」って主張とおもくそ矛盾してて震えてるけど、多分その言い訳として妥当なのは「そういう立案しちゃう政治家は別にそこまでエリートでなくてもなれてる」って感じだと思う…多分。
エリートの概念がクソふわふわしてきた上にエリートとはなんなのか?という疑問が生まれてきたけどまあそれには目をつむって論を進める。

受験科目や国立大から文系学科が減っていく中で、恐らくそういう知識そのものの重要性が必要以上に軽視されるという、現状に対しての揺り戻しがある程度起きるのは必定だと考える。
そこに一体どう対処するのか。マスコミがそういう役割を担うべきなんだろうけど、右派マスコミが政権に鼻薬をしこたま嗅がされて、左派も批判に狂奔している現状でそのような機能を果たすべくもない事は明白なので、文化人がそのへんの重責を担わざるを得ない。
ただそういう事にもしなった時って、文化人の持つプレゼンス自体が低下するのもまた必然だから

ちょっと煮詰まってきたからまたここで切る