ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

由比ヶ浜のクジラ

f:id:ko_kanagawa:20180806174740j:plainf:id:ko_kanagawa:20180806174715j:plain見てきました
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家に帰ったらまた別なアングルから上げます
全長は想像以上に大きい。10メートル近い。
実物見ずにニュースで聞いただけなのでどうせゴンドウかなんかだと思ってたけどザトウクジラ?

追記
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id:izumiya1948 原則通り、このまま埋めると思います。市職員さんが漁業への影響を懸念していましたが「それは自然界で日常的に起こっていることですので」、と学者らしき女性が力強く言っていました。
個人的に海とドリトルかへんなものみっけかどっちか忘れたけど生物学系の漫画でそういう対応をすることを知っていたのもあってテンション上がりました。

また、現地でも気温を考えると腐敗の進行は相当に高いはずという懸念があり、重機を出している業者との兼ね合いがあるにしても今日明日のうちに埋葬しなければならないという会話をしていました。台風も接近しているという事でなんとか対応を頑張って貰いたいですね。

死因などの細かい話は解りませんが、朝から監視と現場警備をされていたらしきライフセーバーの方曰く、外部から確認できるほどの傷があったそうです。写真では正直よくわかりませんが、隠れていた頭部近辺にあったのかな?

ネットワークは

双方向的でなければいけないってのと、コミュニケーションのあるべき姿とをごっちゃにしがちという問題があるのでは?というのを今思いついた。
そしてその辺を考えていったとき浮かぶのは「ある要素を無視する」という選択をどれくらい自然に出来るのか、という事。
人間同士のやり取りの場合を考えると、無視をなるべくスムーズにする事はむしろネット上より簡単なんじゃないかなと思う。
それは暗黙の了解が成り立ちやすいという事と、暗黙にしている範囲が実際わかりづらいって点が大きいのではないだろうか。
ネットのように全てにログが残り…というか残ったログだけが真実、みたいな言ってしまえば倒錯的な状態だと、喋っている事柄の周りに大きな暗黙のスペースが「ある」ということがよそから一目瞭然になりすぎてしまう。
もちろんそういう不意の視点から飛んでくるテーマがより良い議論につながる事もあるとして、それが元の発言の言いたいこととかなんとかをまるっきり圧殺してたらいくらまともな意見だろうがなんだろうが、コミュニケーションとして良いものかは疑問だ。

そういうのをまた完全に無視する態度もまあ建設的ではないと思うってのもまた難しいところだなと思うけど、「無視が出来ない」って事が支払ってるコストというのは案外でっかくて、更に言えばそういうところが以前書いた合理性至上主義みたいなものに繋がってるのかもしれないなあとも少し思った

最近のブコメで

http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/touch/20180718/1531920324

幾名かの人に反応を頂いたので、そのお返事に
といってもクソほど蛇足なんだろうし別に大して見られないとは思うけど書く、自分のために。
雑文しか書けないので言ってることわけわかんないだろうことはすいません

まず誤解を与えたようで申し訳ないし言い訳みたいになるだろうけど、別に親右翼的なチャンネルやなんかがどうなろうが別にそれ自体をどうこう思うつもりはない…
無いはずなのだけどその辺も自分の考えながら曖昧で、やはり現状で極端なものはなんの考えもなくノータイムでアカウントごと消す事が適切だと思う。ただ右翼をこじらせて差別的な表現に至るとしても、それを上手いことぼかす事に気を使っているチャンネルとそうですらないチャンネルというのは存在していると思う。
そのへんをおしなべて通報でアカウント消滅に追い込むというこの事象をなんで危惧するのかって言うとまず第一に、その手法がひっくり返ったときに耐えうるもんなのかっていう獏とした不安がある。
リベラルを信条としてる人がまさか人権とかでユーチューブのポリシー違反とかになりうるとは思わないけど、今回みたいにスパムへの誘導?みたいな謎めいたBAN判定はされかねないし、何かの間違いで一回それを食らった事がスティグマ扱いされてわけわかんない理屈のままさらなる批判を呼ぶみたいな離反工作って現状でも起こっているのではないかと思うし。

そしてもう一つ、わざわざ記事を書いてまで自分の考えをまとめたい事柄とは右翼的思想を持った人々を包摂は出来るのか、出来ないのかという話で
この考えが最近頭をよぎって離れないのは、Hagex刺殺事件の犯人と右翼的思想にかぶれた人たちがものすごく親しい存在というように感じられるからなのだけど、更に関連して右翼に傾倒する人々とオウム信者の人たちの類似性はないかな?という思いつきがあって、
かの増田≒ネトウヨおじさん≒オウム信者
みたいなものを個人的に考えていたからこそあのブコメの内容になった。

自分で書いてて話ごちゃごちゃしてきたからひっくくると、もう明らかに論理破綻しているとしても…いやむしろそういうものに依拠しなきゃいけない人の「追い詰め方」というのがすごく大事なんじゃないか?という感じだろうか。
そこに義があるからやる、みたいな感情や正しさがこちらにはあるみたいな姿勢で追い詰める事は、マジョリティの納得は得るであろうし大局的には圧倒的に正しい。それは間違いない。

が、そこを否定するものではないにせよ今の自分にはその考え方ではHagexさんもあの増田もオウムの信者も、もしかしたらこれから生まれるかもしれない極右の人々も救えないのではないかと思えて仕方がない。

それが例え右翼シンパのくだらなく見える人に慮る形となって、彼らが今差別する人たちを助けない形となったとしてもなのかどうなのか。そのへんが曖昧なのでご指摘を頂いたんだと思うけど、やっぱりまとめてみたら曖昧でした、すいません

漫画の防備録

ロマンスの騎士 
ダンスダンスダンスール(作ジョージ朝倉)←今回はこっちについて書く

スポーツジャンルだけど本質的にスポーツモノではない2作品
特にダンスダンスダンスールの前半部分はそれ自体がオペラのよう
最近よく思うのは、漫画とはいえ大きな物語を描く能力というのは恐らく今の業界の事情などもあって、一握りの超天才にしか不可能なんだろうということ。
岩明均三浦建太郎幸村誠なんかのネームバリューを得ている人でやっと可能になる話だと思う。

そんな中でも、ダンスダンスダンスールは話の奥行きが広い。登場人物が中学生という事で等身大の青春、みたいなのももちろん要素としてはあるけど、その主従がはっきりとある運命に導かれる中でのキーでありフックに過ぎないんだろうなと思ってしまう力がある。
これは想像に過ぎないけど、クラシックバレエという題材自体がそもそも重いものを果てしなく軽やかに持ち上げてみせるみたいな矛盾じみた技術と、それが可能にする圧倒的な表現力の粋を集めたものだからこそ妙に漫画と合うってところがあるように思う。
バレエ漫画て色々あるけど、そこそこまともに読んだことあるのSWANくらいだし現実のバレエをそもそも見たことないので、ちょっと見てみたいなとか思わせられるような引っ張るパワーのあるすごい作品だし、その上更に壮大な完成に向かって突っ走っていることを感じさせる作品。
決してただ悲しい舞台や場面を作って元気な主人公が頑張る、みたいな一直線なものではなく…というか作者の描く線も端的にそれを表しているのかなあと思うけれどとにかく曲線の連続。曲線であるからこそそれを紡ぐ事がいかに難しく、その中で「正しさ」に向かうことの意味みたいなものをこちらにも投げかけてくるような気がしている

ものすごい勢いが書いてるうちに生まれて謎の乱れたグルーヴになった気がするしまだまだ書き足りない点や事柄いっぱいある(最近思う女性作家の偉大さとか)けど、とにかくこの作者は天才。連載しているうちに読む事を強くおすすめします。こんなわけわからん文でもそこに自身が持てるほどすごい漫画はそうそう出会わない

スポーツのいいところ

起こった現実にはどうにかこうにか折り合いをつけなきゃいけないところだとおもう

でもスポーツ上の出来事は現実とは全然けっこう違う理屈で動くから、理解がしやすい面もあるというのが現実と違っていいところだと思う

そしてスポーツをそれなりに取り組まないとわからないことは、平等についての事だ。
スポーツ上での平等とは、押し並べてルールにしか存在していない。
それが書かれてあるルールなのか、不文律となっているルールなのかで厳密な平等すら怪しいが
とにかくルールという人が作って人が決めた概念にしか平等はなく、つまりスポーツとは不平等と戦うということにほかならないのだ。

自然とはまったくの不平等で、故に人間がこさえた平等という概念を尊重するようになるというのが、一握りの超天才以外のほぼすべてのスポーツマンが向き合わされる宿業なのだけど、そこに目を向ける事は取りも直さず敗北を見つめるということである。

自由とは一体何なのか

最近よく考える事は、インターネット上だろうが何だろうが論理的な正しさを求める風潮とそれがもたらす弊害についてだ。
そのテーマにそって思考を巡らすと、論理的な正しさの追求というよりも「自由への希求」こそ人間が人間らしく生きてゆくためには必要…というか、現代の生活をつつがなく送るために本当は必要なものなのに、この国の現状で全く持って足りていない考え方なのではないか、という疑問が浮かび上がってくる。

現行の日本という国家に合理性も、その土台になるべき論理性も存在し得ているのかという謎もそれはそれで存在するが、なればこそ合理性を追求すべきという事になってしまうのも仏造って魂入れずというか、本当に求めるべきものが何なのかに対する考慮の無さが甚だしいような気がする。

もちろんそこで求めるべきものなんか人それぞれな上にその状況に依存している訳で千差万別なんだろうけど、大まかにくくれば「自由であるべし」というテーマは割と忘れられがちなのではないだろうか。

人はなんのために働くのか。金を稼ぐのはどういう理由なのか。大概の人間にとって、賃金は自由にならない金なんではないかと思う。生きるために使ったり、今後生きるために貯めておいたりするものだ。もし自由が約束されているとして、


なんか纏まってないので続きは気が向いたら書く

再現性のない

って表現いいなと思ったので、ただただそれが言いたくてブログを書く

ホットケーキが好き。ホットケーキ。材料あると色々やったりもする。卵白をたててみたり、牛乳のかわりにヨーグルトで作ってみたり、今日は乾煎りしたおからを入れてみたりもしているが、まあ別に普通に作ったもので味的には全くいい。
ちなみにヨーグルトを入れたりバナナを入れたりする場合や、卵白をたてまくってふわふわにしようとした上でめんどくささゆえ一発で大人一人が満足できる量を焼こうとする場合は、焼いているとき基本的にフタをしてひっくり返す際全体の強度を高めたほうがよい。中だけ焼けてないのも防ぎやすくなる。(再びひっくり返して外側カリッというのはこの場合単なる焼きすぎになるので、両立させるのは諦めたほうが良いだろう)

ここまでは再現性しかないが、最近はまっているシロップについて若干の再現性なさがある
材料は言ってしまえばはちみつorメープルシロップに、みりんと洋酒を加えてレンチンしたのちレモン汁をお好みで加えるといったものだけど、この素材で自分が金を出して買ったものはポッカレモンだけ。
じいさんが買って使っていない三河の赤みりん、太古の昔に買ってサイドボードの肥やしになっていたカミュナポレオンデキャンタ、なんか高いはちみつ
この無茶げな素材ゆえなのか、このシロップはやたらにうまい
値段を抑えたものでもうまいのかどうかはわからない。砂糖とラム酒でもなんとかなりそうな気はするけど、このちょいとフローラルな雰囲気はでなさそう。コクは出そうだからその場合潰したバナナとかレーズンを漬け込んでみるのもいいかも

つまり大人がホットケーキを作って欲望を満たそうとしていくと、必然的にインスタントなパウンドケーキへと近づいてゆくのではないかという思いつきがあったけどそれに再現性はない