昨日の続き

エリートとリベラルアーツ、そして暇人達の関係性とそこから生まれる分断について。
昨日の後半に述べた論を続ける。
言いたいことをめちゃめちゃ要約するとこうで、リベラルアーツに属する知識をオタクの専売特許にしちゃったほうが良くない?みたいな話。
実際受験科目からそういう科目が消え、国立大学から文系学科が削られる未来は遠からず来るだろうと思っている。
それはあのブコメで大勢を占めていた「リベラルアーツ必要論」というのも大衆が考えていることであって、現在のエリートの中のエリートは全くそんな必要性を認識していないのでは?という個人的な印象に基づいている…
と、ここまで書いて昨日の「エリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎている」って主張とおもくそ矛盾してて震えてるけど、多分その言い訳として妥当なのは「そういう立案しちゃう政治家は別にそこまでエリートでなくてもなれてる」って感じだと思う…多分。
エリートの概念がクソふわふわしてきた上にエリートとはなんなのか?という疑問が生まれてきたけどまあそれには目をつむって論を進める。

受験科目や国立大から文系学科が減っていく中で、恐らくそういう知識そのものの重要性が必要以上に軽視されるという、現状に対しての揺り戻しがある程度起きるのは必定だと考える。
そこに一体どう対処するのか。マスコミがそういう役割を担うべきなんだろうけど、右派マスコミが政権に鼻薬をしこたま嗅がされて、左派も批判に狂奔している現状でそのような機能を果たすべくもない事は明白なので、文化人がそのへんの重責を担わざるを得ない。
ただそういう事にもしなった時って、文化人の持つプレゼンス自体が低下するのもまた必然だから

ちょっと煮詰まってきたからまたここで切る