感化されたいという欲求

なにかに感化されたい、見知らぬなにかから刺激を得て新しい自分を見出したいという欲求について最近よく考える。
なぜそんなことを気に留めるようになったかというと、歳を取るとそういう事を割と意識的にやらないとあんまりそういうふうな機会とかが少なくなっちゃうんじゃないかという気がある時したからだ。

自己満足というのは人間が生きているだけで腹が減るように、気を抜くとすぐに飢餓感を煽ってくる。呪いみたいだな、と思わないでもない。

若い頃はむしろこの自己満足というものが自分に飢餓を訴える声があまりにも大きすぎて、がむしゃらにそれに応えるということがあまりにも当然過ぎてなにも考えずにそうやっていたんじゃないか、そして今はそんなふうに突き放せる程度に自己満足というものの扱い方がわかるようになってきた、ような気がする。

呪いからの解放はまあ無理でも、自分に呪いみたいなものが掛かっているという仮説が考えつく程度には俯瞰して見られるというのは、なかなかに生きやすいのではないかと思う。

そしてそこまで考えると、なにかに感化されたいという内なる欲求が少なくなってきたなら別にそれが悲しむべき変化だとばかりは思わないし、そこに抗い生きていく事が正しいなんていうのも単にひとつの価値観に過ぎず、参考にこそすれ自分がどうするかなんてのは自分が決めりゃいいだけの話だなと思った。

個人的に若いなんてことにたいした意義を認めていなかったからこその強がりなのかもしれないし、この考え方も現時点での一つの考えなので今後どうなるかは知らんけど

追/自己満足とかなんとかってのが急に出てきたのはこの記事見たからだと今気づいた。この記事より遥かに良いので皆さんどうぞ
https://dot.asahi.com/dot/2018081000019.html