ぼくが最近オーパーツにロマンを感じなくなった理由

これに関して、インディアナジョーンズと新縄文展の話題を別々な友達とそれぞれ話しているときに同じような展開になったので個人的にまとめてみる。
オーパーツが好きだった。より正確に言えば、オーパーツが出てくる漫画が好きだったということなのかもしれない(しかしあの漫画もよくよく考えればオーパーツなんかより人間そのもののほうがやばいよという話だったのは示唆的という気がする)
AKIRAほどスチームパンクでもなく、ドラゴンボールほどポップでもなく、スプリガンという話と皆川亮二の絵柄はカッチリとあの頃の日常とリンクした上でSFファンタジーを見せてくれる最高の漫画だった。
オーパーツはそんなリアルからイマジネーションを与えてくれる存在だった

が、今の自分にとってはまったくそんな存在ではない。
なぜか。

それは第一に科学調査の水準が上がり、オーパーツに残されていた謎をそれなりの公平な視点で納得度の高い形として推測できるようになったということがある。
それはロマンを減じこそさせるかもしれないが、まったく喜ばしいことで幻滅には繋がり得ないはずだ。
つまり、ぼくはオーパーツという概念が成立した過程を考えてやや幻滅してしまった、ということなのだ。

どういうことか。
オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」とした語"
ということだが、その前提としてその場に遇しているかどうかの合理を完璧に判断することが出来ている、というかなり傲慢な認識の元でしかこの言葉は生まれ得ないと言うことだ。
それは前提とする科学技術の発達が…とか、考古学的調査の結果が…とかいうエクスキューズはもちろん有効だろう。だがしかし、それらの言い逃れが「世界で一番進んでいる欧米文化のもと発達した科学でも理解し得ない文化を発見した」という差別的な前提があったということを正当化しはしない。(というと反欧米みたいな雰囲気になるが、この話題に関してたまたま欧米の立場が先頭だったというだけだ)
差別的なと書いてはみたが、どちらかというと寧ろそれが秘める「非科学的な態度」がとにかく気に食わなくなってしまった、と言うことだ。
科学というのは変化と収斂を繰り返し続けるものである。当然その過程で知識やなんかの前提を陳腐化する事(もしくはその逆も)は繰り返されてきた。当然だし自明の話だ。
愚かだなと思うのは今や陳腐化された過去の説ではなく、そういった過去が自分たちの信じる科学にすら存在しているのにそれを全く考慮しないまま未知の文物を扱おうとしていたという態度にほかならないと思うようになったと言うことだ。

なんか自分でもごちゃごちゃしてて面倒くさくなったから誤解が生まれる余地やあらっぽさを考慮せず簡潔に言ってみると、「昔に生きてた人間を馬鹿にしている」のがイヤだなと思うようになった、という感じか。

特筆すべきはキリスト教的史観というイデオロギーによって見失うこととなった種々の文化だと思うけれど、日本人の大陸文化に対する極端な低評価というものも全くそれに劣るものではない異様さであり、寧ろ現在進行形という点でより切実な問題であると思ってもいるけど一旦ここで文として打ち切る。