感化されたいという欲求
なにかに感化されたい、見知らぬなにかから刺激を得て新しい自分を見出したいという欲求について最近よく考える。
なぜそんなことを気に留めるようになったかというと、歳を取るとそういう事を割と意識的にやらないとあんまりそういうふうな機会とかが少なくなっちゃうんじゃないかという気がある時したからだ。
自己満足というのは人間が生きているだけで腹が減るように、気を抜くとすぐに飢餓感を煽ってくる。呪いみたいだな、と思わないでもない。
若い頃はむしろこの自己満足というものが自分に飢餓を訴える声があまりにも大きすぎて、がむしゃらにそれに応えるということがあまりにも当然過ぎてなにも考えずにそうやっていたんじゃないか、そして今はそんなふうに突き放せる程度に自己満足というものの扱い方がわかるようになってきた、ような気がする。
呪いからの解放はまあ無理でも、自分に呪いみたいなものが掛かっているという仮説が考えつく程度には俯瞰して見られるというのは、なかなかに生きやすいのではないかと思う。
そしてそこまで考えると、なにかに感化されたいという内なる欲求が少なくなってきたなら別にそれが悲しむべき変化だとばかりは思わないし、そこに抗い生きていく事が正しいなんていうのも単にひとつの価値観に過ぎず、参考にこそすれ自分がどうするかなんてのは自分が決めりゃいいだけの話だなと思った。
個人的に若いなんてことにたいした意義を認めていなかったからこその強がりなのかもしれないし、この考え方も現時点での一つの考えなので今後どうなるかは知らんけど
追/自己満足とかなんとかってのが急に出てきたのはこの記事見たからだと今気づいた。この記事より遥かに良いので皆さんどうぞ
https://dot.asahi.com/dot/2018081000019.html
情報という概念
ふと最近思った事だけど、情報はかつて「蓄える」ものだった。
いま改めて考えるとそれってかなり時代遅れだよな、と感じる。
情報は更新しなければ意味がない。かつてもそうであったといえばそうだったはずなのだけど情報へ接するスピード、つまり量的なものがその認識を個人レベルで変えて、もはや更新されない情報なぞ変わらない錯誤を抱えるようなものというレベルに近くなっている。
まあしかしそれだって考えてみれば公的な、例えば仕事なんかのメシの種に関わる情報であれば昔からそうだったはずなのだから、つまりは私的な情報の扱いに関しても公的なものを取り扱っているレベルが求められるようになった(なってしまった)というのが端的に纏めた現状ではないか。
人間には認知バイアスというものが絶望的に介在する。その面倒くささ、厄介さは御したと思ったその時こそこちらを振り落としてくるような悪魔性がある。特に自分のようなとりたてて賢くもなく、とりわけて間が悪く生まれつきおっちょこちょいな人間にはそうだと自分で信じてさえいる。
追/ 情報の正誤を決める心とは、一体何なのか。まさか誰も自分の考えが真実に達していると考えているわけでもあるまいに、しかしそう信じていると捉えられるような口ぶりで情報に接しかねない日常がある。
そしてその危うさを、SNSで増幅された好悪が補強する。そして次第に判断の正当性を補強するものであったはずの好き嫌いが判断そのものを呑み込み、好きなものを正しくし嫌いなものを誤ったものに仕立て上げてしまう。
何かを正しいと断定し、何かを誤っていると断罪する。少し前ですら気軽にやっていたそんなような事すら、今は先の見えない中タイトロープを渡るような行為に思えてしょうがなく、ただただそんな場面から遠ざかりたいという思いが今はあるが、しかし人生とはそんなものなのだ
最近行った鎌倉のお店
を、主にりんごの木さんに向けてしたためる。
非常ににわかじこみの情報だけど、いいなと思った所をそのまま書くことに努めるので相対評価ではないということを考慮していただけると幸いです。
最近よく外で紅茶を飲む。コーヒーは正直辻堂の27coffeeが素晴らしすぎて、そこで飲むのが至高で他はあまり感動がなくなってしまっているのと、豆の買い置きがあればそのへんの店で飲むより自宅のフレンチプレスでパパっと淹れたもののほうが美味しかったりするから。
そしてまあ、いい店は紅茶だとポットごとサーブしてくれてコストパフォーマンスがいいという悲しい庶民の知恵も大いにあったりもする。
そしてそのメリットを最大限に甘受する上では、混みすぎないということも非常に大事…なのだけど鎌倉は鎌倉だからその辺諦めも必要となる。
前置きが膨らんでしまった。
まず最初はブンブン紅茶店さん。いきなり反例だけどこの店は席数的にはわりとタイトになる。そもそも名実あるいいお店が銭洗弁財天と佐助稲荷に向かう道すがらにあるということで、週末ゆっくりすることは諦めた方がいいかも。ランチは行ったことがないので謎
この店のウリはもちろん紅茶…もなんだけど、正調な英国風の手作りお菓子が素晴らしい。
スノーフレークケーキと銘柄忘れたストレートティー
ヴィクトリアサンドウィッチとカルダモンティー
スノーフレークケーキはまず提供するスタイルがすごい。このあいだ初めて頼んで出てきたのを見たとき、それだけで気分が上がった。食べる前からそんな事になるってもはやすごい価値。
そして意外な食べ方の指示を教えてもらっていざ口にすると、もはやはっきりした食感は焼きメレンゲ部分のみがあって、その強い甘みと中にまた甘さの抑えたメレンゲ?(これが何だったのかだけ曖昧)クリームの濃厚さ、最下段のレモンカードの爽やかな甘酸っぱさがランダムに、時に混じり合って口を楽しませてくれる。
ポットの紅茶は優に3杯分だけど、このケーキにはそれを最大限楽しませてくれる楽しさがあるので、ボディの強いお茶が合うかな?
ヴィクトリアサンドウィッチは、端正な見た目を全く裏切らない味わい。ジャム(写真ではどちらもレモンカード。季節で変わると思う)をスポンジで挟んで、アイシングをかけただけ。しかし個人的にはスノーフレークケーキよりもこちらに感銘を受けた。
クリームもなく、飾り気もない本当に本当に地味なケーキ。だけどとにかくスポンジの食感が素晴らしい。口どけ、生地の弾力とやわらかさの正しいバランス。
ヴィクトリアサンドウィッチという名前が漂わせるのは華やかなイメージだけど、その実イギリス国民の美徳というか質実剛健さ素朴さと、何よりそれらを動かさない頑固さ、またその裏にある自信を作っている人に感じることができた…というと大袈裟かなあ?
味わいとしては本当にシンプルなのでお茶は何でも合うはず。飲んだことのない品種、おすすめのスペシャル茶葉、チャイもあればフルーツフレーバーブレンドもスパイスティーも、ジャム入り洋酒入フレッシュフルーツ入etc...ティーと呼ばれている中でここで飲めないのはロングアイランドアイスティーくらいじゃないかという中で、思い切ったものを選んでもこの店なら満足できると思います。
書くとやたら長くなったのでまず一軒だけ。
予定としては喫茶系の欧林堂、クレープリーアルモリック、ベルグフェルド長谷店
食事系の極楽カリー、シーキャッスル、津久井、マイクスバー、バワンなんかを書きたいけど、今回力加減がおかしいので次回から調整したい。夜中に始めたのが間違いだった…
由比ヶ浜のクジラ
見てきました
家に帰ったらまた別なアングルから上げます
全長は想像以上に大きい。10メートル近い。
実物見ずにニュースで聞いただけなのでどうせゴンドウかなんかだと思ってたけどザトウクジラ?
id:izumiya1948 原則通り、このまま埋めると思います。市職員さんが漁業への影響を懸念していましたが「それは自然界で日常的に起こっていることですので」、と学者らしき女性が力強く言っていました。
個人的に海とドリトルかへんなものみっけかどっちか忘れたけど生物学系の漫画でそういう対応をすることを知っていたのもあってテンション上がりました。
また、現地でも気温を考えると腐敗の進行は相当に高いはずという懸念があり、重機を出している業者との兼ね合いがあるにしても今日明日のうちに埋葬しなければならないという会話をしていました。台風も接近しているという事でなんとか対応を頑張って貰いたいですね。
死因などの細かい話は解りませんが、朝から監視と現場警備をされていたらしきライフセーバーの方曰く、外部から確認できるほどの傷があったそうです。写真では正直よくわかりませんが、隠れていた頭部近辺にあったのかな?
ネットワークは
双方向的でなければいけないってのと、コミュニケーションのあるべき姿とをごっちゃにしがちという問題があるのでは?というのを今思いついた。
そしてその辺を考えていったとき浮かぶのは「ある要素を無視する」という選択をどれくらい自然に出来るのか、という事。
人間同士のやり取りの場合を考えると、無視をなるべくスムーズにする事はむしろネット上より簡単なんじゃないかなと思う。
それは暗黙の了解が成り立ちやすいという事と、暗黙にしている範囲が実際わかりづらいって点が大きいのではないだろうか。
ネットのように全てにログが残り…というか残ったログだけが真実、みたいな言ってしまえば倒錯的な状態だと、喋っている事柄の周りに大きな暗黙のスペースが「ある」ということがよそから一目瞭然になりすぎてしまう。
もちろんそういう不意の視点から飛んでくるテーマがより良い議論につながる事もあるとして、それが元の発言の言いたいこととかなんとかをまるっきり圧殺してたらいくらまともな意見だろうがなんだろうが、コミュニケーションとして良いものかは疑問だ。
そういうのをまた完全に無視する態度もまあ建設的ではないと思うってのもまた難しいところだなと思うけど、「無視が出来ない」って事が支払ってるコストというのは案外でっかくて、更に言えばそういうところが以前書いた合理性至上主義みたいなものに繋がってるのかもしれないなあとも少し思った