ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

デマゴーグが利用する、怒りという感情

デマというものは社会悪である。しかしその悪を生んだのは社会なのだから、それはそれとして社会の1側面でありそれとうまく付き合っていく事は必須なんじゃないかと思う。
その中で改めて感じたことが、この記事のタイトルになっている。
何をデマとして、何をデマとしないかという価値判断の話は一旦置いておくと(話題にこれが絡んで来ざるを得ないのがまた悪魔的に良くできている)、科学的というか論理的にかなり怪しい話題というのは世の中に色々存在する。
むしろ逆に科学的すぎる、論理的すぎる話というのもデマとして扱われることは多い。
それはつまり、人間というのは感情を以って価値判断を行うという一見当たり前の、しかしあまり意識されない事実を示している。
デマは社会悪であると最初に言ったがそれも実は荒っぽい言い方で、より詳細に言い表すなら今の自分にはこんな感じだ。

「悪意やあまりに偏った意図持った人が流すデマは、社会にとって有害」

と、こんな感じだろうか。

人々はそういったデマとも情報とも言いかえられるものに接して、それを取捨選択している。
信じられる情報はよいもの、信じられない情報は悪いもの、なんていうふうに。
その一見当然な判断の裏にもデマは潜むのではないか。
つまり「俺の信じない情報を信じる奴は馬鹿だ」みたいなタイプの方向性だ。
よくできたデマはこの思考の流れを利用する。
本当は○○だった○○、ここだけの話、衝撃の真実

それが事実か事実じゃないかなんてことは、こういう話題を世の中に広めようとしたときに全く重要ではない。むしろ、そういう確度から遠ければ遠いほど信じる人の思考は強く揺さぶられるような構造をしているのだと思う。
そして、それを信じてしまった人に「それは事実じゃない!」と言ったところで全く意味がないようになっている。なぜならそういう話題は、だいたい事実や常識だと思っていたものを否定するところが話の入り口だったりしているからだ。

長くなったから一旦書くのやめるけ