情報という概念

ふと最近思った事だけど、情報はかつて「蓄える」ものだった。
いま改めて考えるとそれってかなり時代遅れだよな、と感じる。
情報は更新しなければ意味がない。かつてもそうであったといえばそうだったはずなのだけど情報へ接するスピード、つまり量的なものがその認識を個人レベルで変えて、もはや更新されない情報なぞ変わらない錯誤を抱えるようなものというレベルに近くなっている。

まあしかしそれだって考えてみれば公的な、例えば仕事なんかのメシの種に関わる情報であれば昔からそうだったはずなのだから、つまりは私的な情報の扱いに関しても公的なものを取り扱っているレベルが求められるようになった(なってしまった)というのが端的に纏めた現状ではないか。

人間には認知バイアスというものが絶望的に介在する。その面倒くささ、厄介さは御したと思ったその時こそこちらを振り落としてくるような悪魔性がある。特に自分のようなとりたてて賢くもなく、とりわけて間が悪く生まれつきおっちょこちょいな人間にはそうだと自分で信じてさえいる。

追/ 情報の正誤を決める心とは、一体何なのか。まさか誰も自分の考えが真実に達していると考えているわけでもあるまいに、しかしそう信じていると捉えられるような口ぶりで情報に接しかねない日常がある。
そしてその危うさを、SNSで増幅された好悪が補強する。そして次第に判断の正当性を補強するものであったはずの好き嫌いが判断そのものを呑み込み、好きなものを正しくし嫌いなものを誤ったものに仕立て上げてしまう。

何かを正しいと断定し、何かを誤っていると断罪する。少し前ですら気軽にやっていたそんなような事すら、今は先の見えない中タイトロープを渡るような行為に思えてしょうがなく、ただただそんな場面から遠ざかりたいという思いが今はあるが、しかし人生とはそんなものなのだ