この世界の片隅で、何にもなれないであろう我々に捧ぐ
この世界の片隅にという作品がなぜあんな心に残るかって、あの時代の戦争へ突入していくってほどでないにしても2011からの世の中の悪くなって行き方があまりのことで、しかしそれ以上に酷かった時代でも人々はそれなりに楽しくやっていたのだというメッセージが響いているという側面があると思う。
人々は戦争を恐れる。原子力の暴走を、放射能(に代表される科学技術)を恐れる。恐れざるを得ない今がある。
その状況設定と訴えにこそ、この世界の片隅にという作品と輪るピングドラムという作品に共通するメッセージがある。
輪るピングドラムの制作された時期に東日本大震災は起こり、それがどこまでストーリーに影響を及ぼしたのかは知らないが、その軸に明らかに存在した95年に起きていた事を考えれば同様に震災があり、湾岸戦争があり、オウム真理教の一連の事件が全容を表し始め「世紀末」の予言が全くの冗談としては響かないというそれ自体冗談のような状況がそこにはあった。そしてその状況を2011年から眺めているからこそ、逃れ得ぬ運命や前世代が遺した影響からどう生き抜くのかを人々は考えていたし、考え抜いた結論としての今がある(そして残念ながらループする運命のように、歴史を繰り返し続けてもいる)
生存戦略をし続けることが呪いなのか寿ぎなのかどうなのかは今の自分には判断がつかない。が、朗らかに世界の片隅で生きる人々の有り様や呪いだと思ったものを打ち砕くために自分の存在を顧みなかった人々に思いを馳せながら生きていこう、と思わせられるものが2つの作品の中から得た自分の感想である。
サイバーメガネ先輩
セイコーマートの素晴らしさを、道外から冬だけやってくる人が称える 北海道牛乳モナカ編
北海道牛乳モナカ
大地に試され、鍛え抜かれた宝がここに有る
…と。
そんな訳で、まだまだ山ほど紹介したい商品があるセイコーマート。北海道におけるライフハックとは、これ即ちセイコーマート(もしくはSPAR)ハックと心得るべき。これはあながち過言とは言い切れないのではないでしょうか。
諦める自由、を殺すもの
最近の妄想
どこかのアナウンサーが
アニメの中にはニュース以上の真実があるなんてことを言っていた。
そう言いたくなるのもわかる、というのはこうだ。
経済の発展を信じてはバブルやリーマンショックで裏切られ、宗教にはオウムやイスラミストのテロで裏切られ、なんて風に考えていくと今の世の中で俺たちが本当に信じられるものって何なんだ?って気分にもなる。
こういうふうに何も信じられないとなって行き着くのは、仮想の敵を作ることだったり心の空に閉じこもることだったり、自分だけを信じてみたり、自分で自分を殺すことだったりするんじゃないか。
このどんづまりを、他の国なんかは何で和らげてるのか?と考えた時にパッと浮かぶのは宗教になるわけだけど、日本にとっての宗教で中心になる仏教って、あくまで生死という究極の理不尽への思考をアウトソース(というか処理)するためのものって感じで、現世の生活から来るイザコザはそもそも余計なもんだから、みたいな感じな気がする。
その中で、アニメが果たす役割ってキリスト教における聖書世界のようなものって所があるんじゃないか。
なんかすごい前のニュースから浮かんだ書きかけの記事を今追記してみた。そしてまだ未完成…