ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

ららぁさんのブログ

とかを読んだり、最近のADHDに関する増田だったか?を読んで自分の季節性躁うつに対する俯瞰した視点を得たけれど、明らかに3日4日前の気温が一気に上がった日を境に躁鬱が反転して躁状態が始まっている。
自分で考えてもわけわかんない行動を取ってきた人生だったけど、突拍子もないひどい行動も(誰になんの説明もなく仕事を辞めた上に一切の連絡を断つ)脳天気な行動も(出稼ぎを中心に据えた生活の始まりとか、北海道を自転車で野宿しながら半周してみたり)
この季節性の躁うつがかなり説明してくれるのだなと気が付かせてもらって、なんだか心が楽になったような気がする。
躁状態のちからを借りて、とりあえず明日迷惑と死ぬほど心配かけていそうな人に片っ端から謝っていこう。

伝わらないだろうけどららぁさん、不特定増田数名に感謝を記す。
そしてこの躁が終わった時と反動の鬱が始まったときがすごい心配なのでいろいろ取り組んでいかなけりゃならんな…
死ななければまあセーフだと思ってるけど、自分が躁うつって認識できたの初めてだからなにか見知らぬ不測の事態になるかもしれないので注意が必要だ

昨日の続き

エリートとリベラルアーツ、そして暇人達の関係性とそこから生まれる分断について。
昨日の後半に述べた論を続ける。
言いたいことをめちゃめちゃ要約するとこうで、リベラルアーツに属する知識をオタクの専売特許にしちゃったほうが良くない?みたいな話。
実際受験科目からそういう科目が消え、国立大学から文系学科が削られる未来は遠からず来るだろうと思っている。
それはあのブコメで大勢を占めていた「リベラルアーツ必要論」というのも大衆が考えていることであって、現在のエリートの中のエリートは全くそんな必要性を認識していないのでは?という個人的な印象に基づいている…
と、ここまで書いて昨日の「エリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎている」って主張とおもくそ矛盾してて震えてるけど、多分その言い訳として妥当なのは「そういう立案しちゃう政治家は別にそこまでエリートでなくてもなれてる」って感じだと思う…多分。
エリートの概念がクソふわふわしてきた上にエリートとはなんなのか?という疑問が生まれてきたけどまあそれには目をつむって論を進める。

受験科目や国立大から文系学科が減っていく中で、恐らくそういう知識そのものの重要性が必要以上に軽視されるという、現状に対しての揺り戻しがある程度起きるのは必定だと考える。
そこに一体どう対処するのか。マスコミがそういう役割を担うべきなんだろうけど、右派マスコミが政権に鼻薬をしこたま嗅がされて、左派も批判に狂奔している現状でそのような機能を果たすべくもない事は明白なので、文化人がそのへんの重責を担わざるを得ない。
ただそういう事にもしなった時って、文化人の持つプレゼンス自体が低下するのもまた必然だから

ちょっと煮詰まってきたからまたここで切る

漢文古文の話

毎度毎度この手の話題は、「リベラルアーツ“も"必要」とかいう殆どなんにも言ってない系の正論と、それに打たれる脳みそ停止系大量スターにまみれるなあと個人的に思っているけどまあはてブってそういうもんだからそれは軽く腐すだけに留める。

ここで思いついた話題は、エリートにリベラルアーツがホントはどの程度必要かって話だ。

当然全く必要ないとかいう意見はクソなんだけど、分量としては今より全然減らして問題ないと思う。
ただ、減らす事がリベラルアーツの権威も低下させる事に繋がるならそれはリスクになりうるのでそのへんをうまくやろうというのが自分の意見。
文化的教養ってものが社会の中で実質的に果たす役割って「なんとなく引用すると泊が付くぞ」くらいの範囲に留まると思っている。
勿論深く理解し合ってりゃなんか別の効能があんのかもしんないけど、それにしたってオタクのコミュニケーションにありがちなお互いの属性峻別してから始まる知識量競争みたいなもんで、そんなマウンティングゴリラのドラミング合戦みたいなことに社会のリソース割く必要本当にそんなあんのか?ってのが個人的な見かた。

んでここからが本当に言いたいことで、エリートは浅い知識で漢詩だとか哲学用語とか偉人の名言みたいなリベラルアーツを使う→浅い知識だからこそその使い方に知性が発露する→知性がないエリートには暇なオタク(とそれに率いられた大衆)が知識一点突破で勝てるようになる→エリートが知らないなりにリベラルアーツに敬意を払うようになる=オタクとか普通の人たちの人海戦術にも配慮するようになる  みたいな回路を生むべきなんじゃないかって事
今はエリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎてる結果、マジモンのガチヲタを除いてエリートにはなんにも敵わないみたいな社会の共通理解があるような気がする

この世界の片隅で、何にもなれないであろう我々に捧ぐ

この世界の片隅にという作品がなぜあんな心に残るかって、あの時代の戦争へ突入していくってほどでないにしても2011からの世の中の悪くなって行き方があまりのことで、しかしそれ以上に酷かった時代でも人々はそれなりに楽しくやっていたのだというメッセージが響いているという側面があると思う。
人々は戦争を恐れる。原子力の暴走を、放射能(に代表される科学技術)を恐れる。恐れざるを得ない今がある。
その状況設定と訴えにこそ、この世界の片隅にという作品と輪るピングドラムという作品に共通するメッセージがある。

輪るピングドラムの制作された時期に東日本大震災は起こり、それがどこまでストーリーに影響を及ぼしたのかは知らないが、その軸に明らかに存在した95年に起きていた事を考えれば同様に震災があり、湾岸戦争があり、オウム真理教の一連の事件が全容を表し始め「世紀末」の予言が全くの冗談としては響かないというそれ自体冗談のような状況がそこにはあった。そしてその状況を2011年から眺めているからこそ、逃れ得ぬ運命や前世代が遺した影響からどう生き抜くのかを人々は考えていたし、考え抜いた結論としての今がある(そして残念ながらループする運命のように、歴史を繰り返し続けてもいる)

生存戦略をし続けることが呪いなのか寿ぎなのかどうなのかは今の自分には判断がつかない。が、朗らかに世界の片隅で生きる人々の有り様や呪いだと思ったものを打ち砕くために自分の存在を顧みなかった人々に思いを馳せながら生きていこう、と思わせられるものが2つの作品の中から得た自分の感想である。

サイバーメガネ先輩

ブコメで未来への展望を捨てて安寧に生きられればそれでいいみたいな事を書いて、それはまあ本心だったのだけどしばらく経ってから、しかしクソみたいな現実だと一旦思ってしまえば、それに目をつぶるために栄えある未来を渇望しなければ人間はなかなか生きていけないものかな、とも思えてきた。
この場合まずどうにかするべきは未来への欲求なのか、現状認識で今がクソだと思ってしまう事なのか、どちらなんだろう。
とにかく、彼の人のように能力とバイタリティがある人は中々生きづらくて大変そうだと思う。しかし現代に於いて可能性ってものが一番人間を人間たるものから遠ざけうるというのは、もっとみんな考えるべきことなんじゃないかなぁと言うのは割と最近よく浮かぶテーマでもある。
例えば医学の発展で何もかもがお金さえ積めば回復する世界になったとしたら、障害を持ったまま生きるという事が単なる努力不足だ、となってしまうのではないかみたいな話だ。
個人的には無限の努力が強いられる繁栄なんてディストピア以外の何物でもないんだけど、さいとうさんの求めるものってむしろそっち側っぽい気配があるのが不思議なところなんだよなあ。