ko_kanagawaのブログ

The intermittent fragments of log

漢文古文の話

毎度毎度この手の話題は、「リベラルアーツ“も"必要」とかいう殆どなんにも言ってない系の正論と、それに打たれる脳みそ停止系大量スターにまみれるなあと個人的に思っているけどまあはてブってそういうもんだからそれは軽く腐すだけに留める。

ここで思いついた話題は、エリートにリベラルアーツがホントはどの程度必要かって話だ。

当然全く必要ないとかいう意見はクソなんだけど、分量としては今より全然減らして問題ないと思う。
ただ、減らす事がリベラルアーツの権威も低下させる事に繋がるならそれはリスクになりうるのでそのへんをうまくやろうというのが自分の意見。
文化的教養ってものが社会の中で実質的に果たす役割って「なんとなく引用すると泊が付くぞ」くらいの範囲に留まると思っている。
勿論深く理解し合ってりゃなんか別の効能があんのかもしんないけど、それにしたってオタクのコミュニケーションにありがちなお互いの属性峻別してから始まる知識量競争みたいなもんで、そんなマウンティングゴリラのドラミング合戦みたいなことに社会のリソース割く必要本当にそんなあんのか?ってのが個人的な見かた。

んでここからが本当に言いたいことで、エリートは浅い知識で漢詩だとか哲学用語とか偉人の名言みたいなリベラルアーツを使う→浅い知識だからこそその使い方に知性が発露する→知性がないエリートには暇なオタク(とそれに率いられた大衆)が知識一点突破で勝てるようになる→エリートが知らないなりにリベラルアーツに敬意を払うようになる=オタクとか普通の人たちの人海戦術にも配慮するようになる  みたいな回路を生むべきなんじゃないかって事
今はエリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎてる結果、マジモンのガチヲタを除いてエリートにはなんにも敵わないみたいな社会の共通理解があるような気がする

この世界の片隅で、何にもなれないであろう我々に捧ぐ

この世界の片隅にという作品がなぜあんな心に残るかって、あの時代の戦争へ突入していくってほどでないにしても2011からの世の中の悪くなって行き方があまりのことで、しかしそれ以上に酷かった時代でも人々はそれなりに楽しくやっていたのだというメッセージが響いているという側面があると思う。
人々は戦争を恐れる。原子力の暴走を、放射能(に代表される科学技術)を恐れる。恐れざるを得ない今がある。
その状況設定と訴えにこそ、この世界の片隅にという作品と輪るピングドラムという作品に共通するメッセージがある。

輪るピングドラムの制作された時期に東日本大震災は起こり、それがどこまでストーリーに影響を及ぼしたのかは知らないが、その軸に明らかに存在した95年に起きていた事を考えれば同様に震災があり、湾岸戦争があり、オウム真理教の一連の事件が全容を表し始め「世紀末」の予言が全くの冗談としては響かないというそれ自体冗談のような状況がそこにはあった。そしてその状況を2011年から眺めているからこそ、逃れ得ぬ運命や前世代が遺した影響からどう生き抜くのかを人々は考えていたし、考え抜いた結論としての今がある(そして残念ながらループする運命のように、歴史を繰り返し続けてもいる)

生存戦略をし続けることが呪いなのか寿ぎなのかどうなのかは今の自分には判断がつかない。が、朗らかに世界の片隅で生きる人々の有り様や呪いだと思ったものを打ち砕くために自分の存在を顧みなかった人々に思いを馳せながら生きていこう、と思わせられるものが2つの作品の中から得た自分の感想である。

サイバーメガネ先輩

ブコメで未来への展望を捨てて安寧に生きられればそれでいいみたいな事を書いて、それはまあ本心だったのだけどしばらく経ってから、しかしクソみたいな現実だと一旦思ってしまえば、それに目をつぶるために栄えある未来を渇望しなければ人間はなかなか生きていけないものかな、とも思えてきた。
この場合まずどうにかするべきは未来への欲求なのか、現状認識で今がクソだと思ってしまう事なのか、どちらなんだろう。
とにかく、彼の人のように能力とバイタリティがある人は中々生きづらくて大変そうだと思う。しかし現代に於いて可能性ってものが一番人間を人間たるものから遠ざけうるというのは、もっとみんな考えるべきことなんじゃないかなぁと言うのは割と最近よく浮かぶテーマでもある。
例えば医学の発展で何もかもがお金さえ積めば回復する世界になったとしたら、障害を持ったまま生きるという事が単なる努力不足だ、となってしまうのではないかみたいな話だ。
個人的には無限の努力が強いられる繁栄なんてディストピア以外の何物でもないんだけど、さいとうさんの求めるものってむしろそっち側っぽい気配があるのが不思議なところなんだよなあ。

セイコーマートの素晴らしさを、道外から冬だけやってくる人が称える 北海道牛乳モナカ編

突然だけど、セイコマすごいよセイコマ。日本初のコンビニなんだよセイコマは。それだけじゃない。セイコマはなんせ美味しい。道産だと安くできるし美味しいじゃん!そんな無邪気なようなアイデアを、これ以上ない形で実現してる。
そんな神奈川県民セイコマ信徒の私が、特におすすめの商品をここに記し、不用意に北海道へと赴いてしまった不信心者への道標の一つとさせて頂く。

栄えある初回におすすめしたいのは…


北海道牛乳モナカ


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パッケージでわかる人にはわかるであろう驚きが、すでにいくつかあるはず。
まず、表面に大きく謳われた生乳60%使用という点。普通は大部分を乳製品の、しかも嗜好品となるとバターやなんかの為に入脂肪を分離させたあとの低脂肪乳や、脱脂粉乳なんかと色んなものを組み合わせてミルク感を醸造するものだけど、そこはセイコマ。驚きの生乳60%である。勿論それは味わいのリッチさ、それでいて自然豊かな風味に繋がっている。
しかし、味というものは個人の味覚によって大きく左右されるものだ。信者が盲信しているだけではないのかと思った不心得者の方がいたならば、パッケージの裏面をご覧になっていただきたい。

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アイスミルク?何がリッチな味わいだ、アイスクリーム基準も満たしてないじゃねーかと半可通の不信心者が言い出しそうなものだが、その方はこの乳脂肪分4.0%に込められた意図が解っておられない。
では問うが、牧場で食べるソフトクリームの豊かな風味は、果たして生乳に生クリームという加工品をある意味不自然に加えているからこそ豊かでリッチなものであるのか。

もちろん答えは「否」である。

つまりこの商品は、牧場で食べるソフトクリームを、いかに流通させ安価に提供できるのか?という他に比べるべきものが存在しないコンセプトの元開発され、それが驚くべきクオリティで実現され得た崇高なプロダクトなのだ。(妄想ですよ)
そしてそれは、土台となる北海道の大地で育まれた生乳の質と供給に対する絶対的な自信があるからこそ、成り立つものなのだ。


北海道のキャッチコピーとして有名になった、「試される大地」という文句がある。人はそれに面食らって揶揄もするが、他方私はこう思うのである。

大地に試され、鍛え抜かれた宝がここに有る

…と。


そんな訳で、まだまだ山ほど紹介したい商品があるセイコーマート。北海道におけるライフハックとは、これ即ちセイコーマート(もしくはSPAR)ハックと心得るべき。これはあながち過言とは言い切れないのではないでしょうか。

諦める自由、を殺すもの

岡本圭司というプロスノーボーダーの中でも人気の人が、撮影中に脊髄を損傷するような事故にあった。彼は今下半身不随で、当然入院している。現状は首から上が動き、サイトやSNSの更新は彼が話す言葉を文字起こししているのではないかとの事。
事故についてや本人については人それぞれのコメントがあっていいけど、俺が見たフェイスブックのコメントには、「諦めちゃダメ」とかいう類の言葉がハナから溢れかえっていて、とてもじゃないが全てを見る気にはなれずブラウザをそっと閉じた。

最初に感じたのは、そのコメントの浅はかさや愚かさに対する苛立ちだった。「諦めるな」という世の中にあふれる呪詛のような言葉。
しかしフッと再生医療について考えた。
例えば、大金をせば神経の再生医療臨床試験に参加できるとしたら。

現代医学の進歩は神経の構造分析と代替品の開発も、さらに言えば神経細胞そのものの生成もあと一歩、過渡期に今いるのではないかと思っている。今現在臨床試験を行っている人への偏見にもなりそうで表に出すのも憚られる考えだけど、例えば。そう例えば諦めない金持ちが持てる力をすべて使えば、脊髄損傷からの回復が出来てしまう世の中に今なっているとしたら。

その現実は、最初素晴らしいニュースとなって世の中を賑わす事だろう。だけれども。その裏で数多の脊髄損傷を負って麻痺の残った
人には、パンドラの箱に最後残った希望のような、見えない終わりの始まりのように映っててしまうかもしれない。

他方、有名な人が治療に力を注ぎ、医療の発展が果たされて、より早く多くの人たちが救われる可能性が高まるという合理的な側面もそこには見出され得る。合理性のもたらすグロテスクなまでの判断は、果たして正義なのか。そして、そこに自由と平等は介在するのだろうか。

なんだか非常にとりとめもなくなってしまった🍊