漢文古文の話
毎度毎度この手の話題は、「リベラルアーツ“も"必要」とかいう殆どなんにも言ってない系の正論と、それに打たれる脳みそ停止系大量スターにまみれるなあと個人的に思っているけどまあはてブってそういうもんだからそれは軽く腐すだけに留める。
ここで思いついた話題は、エリートにリベラルアーツがホントはどの程度必要かって話だ。
当然全く必要ないとかいう意見はクソなんだけど、分量としては今より全然減らして問題ないと思う。
ただ、減らす事がリベラルアーツの権威も低下させる事に繋がるならそれはリスクになりうるのでそのへんをうまくやろうというのが自分の意見。
文化的教養ってものが社会の中で実質的に果たす役割って「なんとなく引用すると泊が付くぞ」くらいの範囲に留まると思っている。
勿論深く理解し合ってりゃなんか別の効能があんのかもしんないけど、それにしたってオタクのコミュニケーションにありがちなお互いの属性峻別してから始まる知識量競争みたいなもんで、そんなマウンティングゴリラのドラミング合戦みたいなことに社会のリソース割く必要本当にそんなあんのか?ってのが個人的な見かた。
んでここからが本当に言いたいことで、エリートは浅い知識で漢詩だとか哲学用語とか偉人の名言みたいなリベラルアーツを使う→浅い知識だからこそその使い方に知性が発露する→知性がないエリートには暇なオタク(とそれに率いられた大衆)が知識一点突破で勝てるようになる→エリートが知らないなりにリベラルアーツに敬意を払うようになる=オタクとか普通の人たちの人海戦術にも配慮するようになる みたいな回路を生むべきなんじゃないかって事
今はエリートになるためにリベラルアーツの知識が求められすぎてる結果、マジモンのガチヲタを除いてエリートにはなんにも敵わないみたいな社会の共通理解があるような気がする
最近の
https://anond.hatelabo.jp/20180122221621
これにつけたブコメがスターつかなかったのだけ納得がいっていない
この世界の片隅で、何にもなれないであろう我々に捧ぐ
この世界の片隅にという作品がなぜあんな心に残るかって、あの時代の戦争へ突入していくってほどでないにしても2011からの世の中の悪くなって行き方があまりのことで、しかしそれ以上に酷かった時代でも人々はそれなりに楽しくやっていたのだというメッセージが響いているという側面があると思う。
人々は戦争を恐れる。原子力の暴走を、放射能(に代表される科学技術)を恐れる。恐れざるを得ない今がある。
その状況設定と訴えにこそ、この世界の片隅にという作品と輪るピングドラムという作品に共通するメッセージがある。
輪るピングドラムの制作された時期に東日本大震災は起こり、それがどこまでストーリーに影響を及ぼしたのかは知らないが、その軸に明らかに存在した95年に起きていた事を考えれば同様に震災があり、湾岸戦争があり、オウム真理教の一連の事件が全容を表し始め「世紀末」の予言が全くの冗談としては響かないというそれ自体冗談のような状況がそこにはあった。そしてその状況を2011年から眺めているからこそ、逃れ得ぬ運命や前世代が遺した影響からどう生き抜くのかを人々は考えていたし、考え抜いた結論としての今がある(そして残念ながらループする運命のように、歴史を繰り返し続けてもいる)
生存戦略をし続けることが呪いなのか寿ぎなのかどうなのかは今の自分には判断がつかない。が、朗らかに世界の片隅で生きる人々の有り様や呪いだと思ったものを打ち砕くために自分の存在を顧みなかった人々に思いを馳せながら生きていこう、と思わせられるものが2つの作品の中から得た自分の感想である。
サイバーメガネ先輩
セイコーマートの素晴らしさを、道外から冬だけやってくる人が称える 北海道牛乳モナカ編
北海道牛乳モナカ
大地に試され、鍛え抜かれた宝がここに有る
…と。
そんな訳で、まだまだ山ほど紹介したい商品があるセイコーマート。北海道におけるライフハックとは、これ即ちセイコーマート(もしくはSPAR)ハックと心得るべき。これはあながち過言とは言い切れないのではないでしょうか。